既に旧聞に属するが、5月26日に新国立美術館で「「セザンヌ―パリとプロヴァンス」展から見る今日のセザンヌ」と題されたシンポジウムが行われ、私も参加した(http://www.francojaponais504.jp/discours120526.html)。セザンヌの面白さと難しさについて、いろいろ考えさせられた1日だった。
ややもすると哲学的、美学的に語られがちなセザンヌを、歴史的、美術史的な枠組みのなかで適切に捉え直したいという思いは、私の中にも常にある。昨今では、「セザンヌとプロヴァンス」展(2006年)に続いて「セザンヌとパリ」展(2011年)があり、場所の特性から見たセザンヌへのアプローチが盛んだが、今回の展覧会はこの二つを融合したような内容。パリ(芸術の先進地)とエクス(アイデンティティを置く故郷)との間を頻繁に往復するセザンヌの足跡をたどり、作品にもたらされた意味を解明しようとするところに眼目があった。
そのねらいについては、展覧会日本側担当者の工藤弘二氏がシンポジウムで詳しく説明してくれた。また、セザンヌ研究の方法論を改めて総ざらいした永井隆則氏の発表は、これだけ多種多様なアプローチがあるということと、決定的に有効な方法がないということを、同時に示唆してくれたと言ってよい。
ちなみに、最近あちこちで吹聴しているのだが、近年のセザンヌ文献では、 Paul Cézanne,
Cinquante-trois lettres, transcrites par Jean-Claude Lebensztejn, Echope,
2011が絶対に外せないと、個人的に思っている。単にセザンヌの手紙の読み方を修正しただけでなく、セザンヌ解釈まで変えかねない成果なのだ(文献学恐るべし!)。これまで恣意的に整序されたリウォルド編の書簡集を使っていた研究者で、セザンヌの癖や息づかいが生々しく感じられるこの書簡集(53通だけとはいえインパクト十分)を熟読しない人を、私は決して信用しない。
さて、本来はプッサンが専門の新畑泰秀氏は、セザンヌにおける古典主義の問題を再検討してくれたが、確かにベルナールやドニの言説の精密な読解はまだ終わっていない。さて、私はと言えば、前々から気になっていた「セザンヌとマネ」という懸案のデリケートな問題を扱い、両者の相違点と共通性、影響と反発を、具体的な作品に即して分析してみた。マネ研究者の私にとっても、セザンヌは大変気になる、面白い存在なのだ。
このシンポジウムの記録集が刊行され、美術史関係の諸機関に送られるとの最新情報もあるので、興味のある方はいずれ目を通していただきたい。