2013年4月23日火曜日

ドビュッシーの時代を生きること、展覧会と講演会

 [三浦篤]

 昨年の後半は多忙に過ぎて、長い間ブログが書けなかったので、2012年度で気になったことを、少し回顧してみたい。例えば、7月15日に恵比寿の日仏会館で開催された、ギ・コジュヴァル、オルセー美術館館長の講演会「ドビュッシーと象徴主義」のことは、今でも折に触れて思い出す。私がオーガナイズと司会を務めたこの講演会は、パリのオランジュリー美術館で開催されたあと、やや内容を変えてブリヂストン美術館に巡回した「ドビュッシー、音楽と芸術」展を記念するもので、コジュヴァル館長はその総監修を務められていた。


 私自身、パリ展も観たが、分かりにくい、つかみどころが難しいというのが最初の印象。一つのジャンルだけでも大変なのに、諸芸術の照応というテーマは本当に容易ではない。東京展を観ても困惑が続き、この講演会を聞いてようやく腑に落ちた気がした。実は、展覧会監修者の一人ジャン=ミシェル・ネクトゥー氏に展覧会と同テーマの浩瀚な研究書があり、厳密な方法意識に基づく良書であるのは間違いない(例えば以下の書評を参照。http://www.latribunedelart.com/harmonie-en-bleu-et-or-debussy-la-musique-et-les-arts)。ところが、コジュヴァル氏を基軸とするこの展覧会には、学術性とは異質な側面、別の面白さがあることが、講演会を聞いてようやく感得できたのだ。
 ドビュッシーを核にして、19世紀末パリの美的生活や芸術家の交友関係、当時の多様な潮流(象徴主義、印象主義、ジャポニスム、古代回帰等々)など、あらゆる文化的な環境を復元し、さらに汎ヨーロッパ的な文脈をも踏まえつつ構成された展覧会。ドビュッシーの音楽と響き合う諸芸術(美術、文学、舞台芸術など)の精髄が結集した催しと言ってもよい。これは考えるというよりは、感じるべき展示であり、感性の合う人には堪らない展覧会、合わない人にはピンと来ない展覧会となったのである。ドビュッシーをめぐる美的世界を追体験できるかどうかが鍵で、端的にいって啓蒙的観点は重視されていない。
 コジュヴァル氏の講演もまた、世紀末パリの文化・芸術の豊かさを喚起する大変興味深いものであった。学術的なアプローチとは別の提示の仕方があることを存分に見せていただいた。画像とともに流されたドビュッシーの楽曲のマッチングも抜群。主観的な観点からの照応関係に一定の説得性を持たせるためには、諸芸術に精通した深い趣味の裏打ちが必要であることがよくわかった。
 ここで評価が分かれるかもしれない。この展覧会が分かるかどうか、楽しめるかどうかは、あなたの趣味と感性次第という、近年稀少な催しとなった。分かる者だけに分かればよいとする「文化エリート主義的」な立場が根底にあり、それをどこまで認めるかで意見が分かれよう。ジャンルのクロスオーヴァーという切り口を通じて、分かりやすさ至上主義に陥っている昨今の展覧会の在り方にも一石を投じたと言えよう。

2013年4月15日月曜日

南京と印象派


[三浦篤] 

 自分でも予想外であったが、3月18日から21日まで中国の南京に滞在した。東大駒場のLAP(リベラル・アーツ・プログラム)の集中講義を引き受けて、南京大学で2日間授業をしたのである。尖閣諸島や大気汚染などが話題になっている頃であったし、マスク持参でおっかなびっくり飛行機に乗ったのだが、着いてみると誰もマスクなどしていないし、日本人だから危険な目に遭うということもなかった。もっとも、南京市内は何となくほこりっぽく霞んでいる。これはやはり公害か(近くにコンビナートもある)、それとも黄砂か、はたまた異常な建設ラッシュのためか(ユース・オリンピックを控えている)、やっぱり春霞なのか、最後まで判断がつかなかった。
 それはともかく、リレー式の集中講義の総合テーマは「水」であった。南京大学の日本語学科の学部生、大学院生を相手に日本語で授業してよろしい、自分の専門のことをしゃべってほしいということだったので、主題はあっさり「水辺の印象派」にした。中国絵画、日本絵画にもほんの少しだけ触れたけれど。詳しくは以下を参照。

 大学院生が私の授業を同時通訳してくれたが、約30人出席した南京大の学生たちの日本語力はなかなかのものだった。理解力と会話力は決して低くはなかった。われわれ日本人の外国語能力と思わず比べてしまった(東大の学生たち、もう少しがんばろう)。ただし、画像を見せて分析する美術史の授業に慣れていないし、印象派の作品をほとんど見たことがないから、最初はやや戸惑いがあったと思う。しかし、2日目になると慣れてきて反応もよくなったし、最後は質疑応答もできた。やって良かったと思える集中授業だった。
 郊外に移転した南京大学の新キャンパスは広大な敷地を占めていて、日本の感覚では想像もつかない。ハードがこれだけ充実し、そこにソフトが加われば、日本の大学は圧倒されるかもしれない、そんな印象をひしひしと感じたのである。いや、であるからこそ、今なら東大の教養教育を中国に「輸出」できるという、LAPの世話役である刈間先生のご判断は実に正しい。お声がかかればまた行ってもよいと思った(南京の料理はとても美味しかったということもあるけれど)。ただ、これから中国語に手を出すのはちょっと難しいかな。やってみたい気持ちはあるのだが。