2012年10月4日木曜日

Louis Vuitton のモノグラムに関するヴィデオ

[三浦篤]


 もう10年くらい前になるのだが、ルイ=ヴィトンのよく知られたモノグラム・デザインが、ジャポニスム(日本趣味)と本当に関係するのかどうか(「家紋説」が流布しているので)、ルイ=ヴィトン社から依頼されて、調査したことがある。おそらく起源はゴシック・リヴァイヴァルの可能性が高く、ジャポニスムが含まれていたとしても、万博の時代に誕生したユニヴァーサルなモダン・デザインとしての一要素としてでしかないだろうという結論にいたった。この研究成果はなかなか日の目を見ないのだが、そのほんのさわりをLouis Vuittonのホーム・ページでしゃべってみた。パリで撮影した動画とインタビューを融合した映像です。

2012年10月3日水曜日

シンポジウム傍聴記 : Territoires du japonisme


[齋藤達也]

 レンヌ第二大学で開かれた三日間(9/27-9/29)に渡る大規模なジャポニスムのシンポジウムに聴講者として参加する機会を得たので、この場を借りてその模様を報告したい。公式webページとプログラムは次を参照(http://www.univ-rennes2.fr/histoire-critique-arts/actualites/colloque-international-territoires-japonisme)。2008年に東京日仏会館で行われた大シンポジウム「日仏芸術交流の150年」は記憶に新しい。ジャポニスムに焦点を絞った今回の企画もそれに引けを取らない規模で、日仏の研究者を中心に約20の研究報告がなされた。


 プログラムの構成について見れば、各々の発表は時代的にもテーマ的にもバランスよく分散していたといえる。日本の開国以前にヨーロッパに流入した日本や中国の品々の紹介、画中の日本的モチーフを同定する研究、コレクターや著述家についての発表、産業芸術の文脈の中で日本美術の影響を跡づけるもの、そして20世紀初頭の日本美術の受容を検討するものなど、主題は多岐に渡る。中でも特筆しておくべきは、河鍋暁斎と久米桂一郎が欧米のジャポニスム研究者の前でおそらく初めて、それもフランスの地で紹介されたことである。北斎や広重などと比較すると、欧米でアクセスできる暁斎の情報量は少ないだろう。しかしながら、モスカティエッロ氏によるアンリ・ゲラールの扇面画の発表が端的に示していたように、例えば『暁斎百図』はイメージ・ソースとしてフランスで幅広く参照されていた。小林氏による発表によって、ジャポニスムの文脈での暁斎理解が進むことが期待される。一方で伊藤氏による、久米や同時代の日本の洋画家のブルターニュやブレア(Bréhat)滞在期の様子の紹介は聴衆の関心を引いたようで、日本人画家の名前を書き取る研究者の姿が多く見受けられた。日仏美術交渉史の中でジャポニスムを捉え直す契機を与えるという意味で、これらの発表は大変意義深いものだったように思う。
 この他にいくつかの発表内容に触れてみよう。今井氏による発表は、新たに発見されたフィリップ・ビュルティの手帳によって、1891年の売立てによって散逸したビュルティ旧蔵コレクションを明らかにしようとする試みで興味深かった。前述のモスカティエッロ氏の研究はゲラールによる新出の複数の扇面画を紹介・分析するのもので、描き込まれた日本的モチーフの参照源を同定する実証的な手続きは、オーソドックスでありながらジャポニスム研究の基礎をなすアプローチであることを改めて印象づけた。ラカンブル氏による、これまで語られることが避けられてきたジャポニスムの側面(日本の「おまる」や春画の受容)に関する発表、そしてワイズバーグ氏による、アメリカの画家ロバート・ブラムの日本滞在期撮影の写真と絵画との関係の分析は、ジャポニスム研究の大家として意欲的に新たな領域に踏み込む姿を見せてくれた。レンヌ第二大学でのシンポジウム開催の実務の労をとってくださったプロー=ディリュイ氏は、批評家ギュスターヴ・ジェフロワとジャポニスムとの関係の全体像を描くことで、研究領域としての「著述家と日本美術」の可能性を広げた。
 ラカンブル氏、ワイズバーグ氏とならんで、本シンポジウムの学術委員には三浦先生も名を連ねている。三浦先生の発表はいわゆる「大芸術」における日本の表象を跡づけるもので、手堅い方法論と発表構成が他と一線を画していた。チェザーレ・リーパ『イコノロギア』以来の大陸寓意像のうち「アジア」の図像は、中東、インド、中国の要素で代表されることが多かった。1867年のパリ万博の年に注文され、リュクサンブール公園に設置されることになるカルポーの《地球を支える四世界》においても、「アジア」は中国人によって表現されている。ところが1878年のパリ万博の際に制作されたファルギエールの彫刻においては(三浦先生が発表冒頭で示したように、これは今日オルセー美術館前の広場にある)、日本の少女が「アジア」の位置を占めることになる。こうした「ムスメ」のイメージは、サロンにおける日本趣味の絵画にも見出される。圧巻だったのは、最後に示されたサクレ=クール寺院の天井画(1913年)に描かれた「ムスメ」である。西洋の教会堂にまで日本趣味が反映されていた事実に驚くと同時に、そうした図像を探索するのに費やされたはずの膨大な作業と時間とが頭をよぎった。日本美術を積極的に取り入れた画家や作品ではなく、あえて公共記念物やサロン絵画を通して見ることで、時代全体における日本趣味の浸透度が明らかになったといえるだろう。



 それぞれのセクション後に設けられた質疑応答は大変に盛り上がった。ジャポニスムの全体像を問うものから、一次資料の眠るアーカイヴに関わる議論まで様々なレベルの話題が入り乱れ、終始活発な議論が展開されるフランスらしい光景が見られた。会場外では研究者同士が活発に交流し、筆者もエルネスト・シェノーについて第一線の研究者たちと話し合う貴重な機会を得ることができた。最終日に司会を務めた三浦先生が最後に述べられたように、再びこうした国際シンポジウムが開催できるよう、若手研究者はジャポニスム研究の成果を受け継ぎ、世界の研究者と積極的に対話してゆかねばならない。

2012年10月2日火曜日

セザンヌの面白さと難しさ

[三浦篤]


 既に旧聞に属するが、5月26日に新国立美術館で「「セザンヌパリとプロヴァンス」展から見る今日のセザンヌ」と題されたシンポジウムが行われ、私も参加した(http://www.francojaponais504.jp/discours120526.html)。セザンヌの面白さと難しさについて、いろいろ考えさせられた1日だった。
 ややもすると哲学的、美学的に語られがちなセザンヌを、歴史的、美術史的な枠組みのなかで適切に捉え直したいという思いは、私の中にも常にある。昨今では、「セザンヌとプロヴァンス」展(2006年)に続いて「セザンヌとパリ」展(2011年)があり、場所の特性から見たセザンヌへのアプローチが盛んだが、今回の展覧会はこの二つを融合したような内容。パリ(芸術の先進地)とエクス(アイデンティティを置く故郷)との間を頻繁に往復するセザンヌの足跡をたどり、作品にもたらされた意味を解明しようとするところに眼目があった。
 そのねらいについては、展覧会日本側担当者の工藤弘二氏がシンポジウムで詳しく説明してくれた。また、セザンヌ研究の方法論を改めて総ざらいした永井隆則氏の発表は、これだけ多種多様なアプローチがあるということと、決定的に有効な方法がないということを、同時に示唆してくれたと言ってよい。
 ちなみに、最近あちこちで吹聴しているのだが、近年のセザンヌ文献では、 Paul Cézanne, Cinquante-trois lettres, transcrites par Jean-Claude Lebensztejn, Echope, 2011が絶対に外せないと、個人的に思っている。単にセザンヌの手紙の読み方を修正しただけでなく、セザンヌ解釈まで変えかねない成果なのだ(文献学恐るべし!)。これまで恣意的に整序されたリウォルド編の書簡集を使っていた研究者で、セザンヌの癖や息づかいが生々しく感じられるこの書簡集(53通だけとはいえインパクト十分)を熟読しない人を、私は決して信用しない。


 さて、本来はプッサンが専門の新畑泰秀氏は、セザンヌにおける古典主義の問題を再検討してくれたが、確かにベルナールやドニの言説の精密な読解はまだ終わっていない。さて、私はと言えば、前々から気になっていた「セザンヌとマネ」という懸案のデリケートな問題を扱い、両者の相違点と共通性、影響と反発を、具体的な作品に即して分析してみた。マネ研究者の私にとっても、セザンヌは大変気になる、面白い存在なのだ。
 このシンポジウムの記録集が刊行され、美術史関係の諸機関に送られるとの最新情報もあるので、興味のある方はいずれ目を通していただきたい。

2012年9月12日水曜日

ポーラ美術館との合同研究会


安永麻里絵

 20127月1日、箱根のポーラ美術館にて、同館学芸部と三浦ゼミとの合同研究会第二回が開催された。
 本研究会は、企画展『印象派の行方』の研究成果を出発点に、さらに議論を深める目的で開催された。美術館における知と大学における知がいかに響き合うか、その可能性を実践的に探る、という他に類をみない試みである。
 『印象派の行方』展は、いわゆる最後の印象派展以後の印象派、を主題とする。すなわち、1886年の第8回印象派展(スーラが«グランド・ジャット島の日曜日の午後»を出品した展覧会である)をもって、「印象派」が“最も先鋭的な芸術家集団”の座を新印象主義や総合主義をはじめいわゆるポスト印象主義の世代に明け渡したとされる1890年代以降、印象派の画家たちはどのように制作を行い、同時代の画家や批評家にいかに評価されていたのか、を主題としている。
 研究会では、ポーラ美術館からは島本英明と東海林洋の両氏にご発表いただき、三浦ゼミからは川辺和将、農頭美穂、安永麻里絵の3名が発表の機会を頂いた。展覧会を担当された島本氏による「1890年前後のルノワール評価―印象主義と古典主義のはざまで」では、ルノワールが1884年から1887年にかけて制作した大作«大水浴»(フィラデルフィア美術館蔵)とポーラ美術館所蔵の«髪飾り»1888年)を軸に、印象派展以後のルノワールの画業における古典主義の受容と意義が考察された。氏は、前衛的芸術家としての立場を経験した印象派の画家たちの「その後」の制作活動における古典主義の意義、という研究会全体に共有される視点を提示された。ピカソの内面における古典芸術とのある種の抑圧的構造と彼の画風の展開の関連性の分析を試みた東海林氏による「パブロ・ピカソ―古典の影」もまた、同様の問題意識に根ざしている。一方で、美術作品や画家の周辺、つまり美術批評家、画商、コレクターといった視点からの考察も提示された。川辺の「売るクロード・モネ―市場と言説をめぐる画家の戦略」は、美術市場に戦略的に自作を売り込む画家、というモネの新たな一側面に光をあて、農頭による「ピエール・ボナールをめぐる言説についての試論―印象派の後継/改革者、取り残される熟練の画家」では、印象派という前世代のビッグネームとの関連性によってボナールの評価が揺れ動くさまが描き出された。安永による「世紀転換期ドイツにおけるフランス印象派の受容」では、印象派の作品が、批評家による“前衛的特質”の保証によって市場価値を得ていた時代の後に、近代美術史の一部としてそれらが美術館コレクションに組み込まれていく過程が考察された。

[左:発表風景 右:荒屋鋪館長]

 島本氏が発表の終盤で示された、ルノワールがルーヴルに飾られた自作を見に訪れた経緯についての考察が個人的に印象に残っている。画家にとっての美術館という見方が、作品を蒐集する側である美術館を主体とする私自身のアプローチとどこか接点を結ぶように感じられたからだ。作品その物を身近に置かれている美術館の方々のご研究と、資料から出発することの多い大学の研究は、たとえばレジュメの作り方ひとつをとっても随分と違っているけれども、両者が出会うことで、さらに新しい視界が開かれる、そのことを実感した研究会だった。2005年の第一回に引き続き、ご多忙の中このような貴重な機会を快く提供して下さった荒屋鋪館長をはじめポーラ美術館学芸部の皆様に、厚く御礼申し上げる次第である。