2017年2月2日木曜日

イギリスでの研究調査についての雑記―ジュリア・アイオニディスとの思い出

[安藤智子]

 アルフォンス・ルグロ(Alphonse Legros, 1837-1911)という1860年代始めにフランスからイギリスに渡った画家を博士論文のテーマにした私は、多くの時間をイギリスでの調査に費やした。そこでの重要な出来事は、コレクターの遺族、ジュリア・アイオニディスとの出会いであった。2012年、ちょうど5年前のことになる。
 
 ジュリアはコンスタンティン・アイオニディスというコレクターの末裔である。コンスタンティン・アイオニディスは19世紀後半にイギリス在住したギリシア人の新興実業家であり、株の仲買で富を築き、当時としては珍しく同時代のフランス美術も蒐集した。現在もロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館には、このコレクターが遺贈したコレクションのための一室があり、ルグロやその友人たちの作品を見ることができる。当時このアイオニディスが作品を購入する際にアドヴァイザーとして大きく関与したことが、展示プレートに明記されている。
 
 渡航前に美術館にルグロとアイオニディス関係の調査を依頼し、ロンドンに到着するとすぐさまその資料室に向かった。 

 資料室での調査1日目。アイオニディス・コレクション関連の資料は、大きな箱二つに収められていた。大量の資料を手にして喜んだのも束の間、絵画部門の学芸部長がやって来て、資料のコピーは20ページにとどめるように告げられた。もちろん撮影もできない。ざっと目を通し、どのような資料があるのかを書き出して1日が終わった。
 調査2日目。昨日の二つの大きな箱は一つになっていた。個人情報が含まれているので、一つの箱の資料は見せられないという理由であった。大変がっかりしたが、目前の一つ箱にある資料の内容を筆記する作業を続けた。もう見ることのできない資料のなかには、この学芸部長をはじめ、多くの研究者がジュリア・アイオニディス宛に資料を見せてほしいという依頼のレターが含まれていたことは記憶していた。
 

 この時の調査はここで終了し、帰国後に取得した資料を改めて検討してみると、貴重な一次資料は全て遺族のジュリアが所蔵していることがわかった。資料室で毎日顔を合わせていた学芸部長のアシスタントに、ジュリア宛のメールを転送することをメールで頼むと、意外にもすんなりと承諾してくれた。するとすぐに、資料調査に自宅に泊りがけでいらっしゃいという返事がジュリアから届いた。この返信が大変嬉しく、コレクターの遺族とコンタクトが取れたことを三浦先生にすぐご報告したことを覚えている。

 ジュリアの親切な申し出に従って、その後準備を整えて渡英し、彼女が住むラドローへと向かった。ラドローは、ロンドンから電車を乗り継ぎ2時間半ほどの距離にあり、ロンドンの北西、バーミンガムの西に位置する。テム川に沿う古城があり、城壁に囲まれたグルメの街として有名な風光明媚な地方都市である。私は一面識もないイギリス人宅に2泊3日の滞在を予定し、大変緊張して駅を降り立った。出口では60代にさしかかった婦人が待っていてくれて、ジュリアと思われる人にぎこちなく挨拶して彼女の車に乗せてもらった。 

ラドローの街並み
 自宅に到着し、正直驚いたのは、ジュリアがヴィクトリア時代の栄華を誇ったアイオニディス家の末裔とは思えないほど、普通の家に住み、質素な生活を送っていたことであった。玄関には、私を迎え入れるルグロ作のダルーの肖像版画が飾られ、多くの本が住居を占領していた。  
 ダイニングテーブルには、コンスタンティン・アイオニディスが所持していた手紙、作品の購入を記録した台帳、加えてこれまでのアイオニディス・コレクションに関する研究論文や書籍がすでに用意してあった。そして、一般家庭には似つかわしくない大きなコピー機があり、好きなだけコピーしてもよいと言ってくれた。私は資料撮影とコピーを続けた。

 ジュリアとご主人の大変美味しい手料理でもてなされ、ワインをごちそうになり、暖かい一室を与えられて、夢のような3日間を過ごすことになった。夕食後には暖炉の前で、研究についてのみならず、ヨーロッパの移民や日本の震災後の原子力発電の問題、そして私生活に至るまでジュリアと多くを語り合った。彼女には私の拙い英語に我慢してもらったのではあるが。この時の経験は現在に至るまで私にとって大きな意味を持つことになった。
 
 ジュリアにとって、私が遠い日本に住みながらルグロとアイオニディスに興味を持ったことが驚きであったらしく、なぜルグロを研究しているのかと執拗に質問された。ルグロの作品の魅力やそれまでの私のルグロに関する研究について、懸命に返答した。研究に関する様々な質問に答えるうちに、ジュリア自身もイギリスの建築を専門とする美術史家であり、ラドローの建築について書籍を出版していて、高い見識の持ち主であることがわかった。ジュリアは、他の研究者たちにも惜しみなく資料を提供している。その研究者たちによる研究成果がジュリアのところに集積していたので、私にとっては、とくに未公開であるイギリスの大学に提出された博士論文を参照できたことは幸運であった。その論文を知らなければ、同じ研究を繰り返すことになっていたかもしれない。
 
 大変残念なことに約1年前、ジュリアはトルコの大学に出向き、そこで事故に遭って帰らぬ人になってしまった。一度日本に招待したいと言いながら実現できず、一昨年には一緒にロンドンで調査をするはずであったが、私の不手際から直前にキャンセルし、結局ジュリアとの出会いはその時の一度だけとなってしまった。後悔してもしきれない。私は博論完成までジュリアに何度もメールで励まされ、帰国後もルグロに関しての情報があると、この調査を終えたかと確認を受けていた。最後のメールには、フランスでのテロがこれからの悲劇の始まりでないことを祈るということと、レイトンとルグロは親交があったので、レイトン・ハウスを訪問するようにというアドバイスがあった。

コンスタンティン・アイオニディス宛のルグロの手紙
 ジュリアは亡くなる前にアイオニディス一家の伝記を書くための調査を精力的に行っており、それらは娘さんに引き継がれたと聞く。コンスタンティン・アイオニディスが無名の芸術家を援助し、芸術によって当時の人々を啓蒙しようと志したフィランソロピーの精神は、ジュリアに豊かに受け継がれていた。  
 ルグロがアイオニディスから受けたように、私もアイオニディス家の恩恵に預かった一人である。ジュリアに与えてもらったものを私の研究成果を示すことが、せめてもの彼女への恩返しだと思っている。